岩崎小彌太会長
岩崎小彌太会長の人となり
明治12年8月3日、父彌之助(三菱合資会社二代目社長)、母早苗の長男として、東京市神田区駿河台に生まれる。東京女子師範学校附属幼稚園、小学・中学科を卒業後、18歳で第一高等学校に進学。明治32年東京帝国大学に入学、在学1年の後、英国留学の途に上り、明治38年ケンブリッジ大学3ヵ年の学業を終え、バチェラー・オブ・アーツの学位を受ける。翌39年米国巡遊後、帰国。同年5月には28歳にして三菱合資会社副社長に就任。私立成蹊実務学校や東京フィルハーモニック・ソサエティを開設するなど、文化面において多大な功績を残す。その後、大正3年9月大義奉公・質実剛健を旨とする三菱精神と英国仕込みの社会改良思想のもとに「三菱倶楽部」を創立。同5年7月には三菱合資会社社長に就任し、三菱倶楽部会長を兼務するにいたる。
 三菱養和会の設立以来、半世紀以上の年月を経た。とりわけ発足前後の我が国は、経済界を含めて未曾有の激動の時代であった。すでに遠い過去のことではあるが、ここで、三菱養和会の歴史を振り返ってみたい。
 三菱養和会は、当初三菱倶楽部として発足したものである。
 時あたかも第一次世界大戦勃発の大正3年(1914年)、我が国が急激な発展を迎えつつある時代に、三菱合資会社岩崎久彌社長を会長に、岩崎小彌太副社長が副会長となり、三菱倶楽部は創立された。会員はわずかに3,300余名で、運営経費も社長下付金で賄うといった出発であったが、大正5年、岩崎小彌太会長の就任におよんで会もしだいに発展の兆しを見せ、2年後には総務・武術・弓術・端艇・戸外運動・文芸の6部を組織するに至った。
 そもそも創業以来、三菱は、大義奉公・質実剛健の伝統的三菱精神を育成すべく、社員の人格向上、心身の健全な発達、協同一致の精神の奨励はもとより、さらに国力充実、実業振興という大方針を掲げていた。この理想に基づいて、三菱倶楽部は設立されたのである。
 昭和12年、三菱合資会社は株式会社三菱社に改組、それに伴い多くの三菱グループ各社が設立され、会員も飛躍的に増大するが、折しも昭和14年、第二次世界大戦勃発、我が国は未曾有の難局に直面することとなる。
 ここにおいて、昭和15年11月、小彌太会長は、三菱倶楽部を改組し、独立の組織「財団法人三菱養和会」を設立、三菱各社の会員の協力一致を図るとともに、三菱精神昂揚のために会の基盤を確立、その発展を期した。そして会員数の増加に伴い諸設備等内容も充実させ、同年のうちに会員数2万有余、支部数約60、施設90余を数えるに至り、三菱養和会は当時としては他に類を見ない盛大な組織体に成長したのである。
 しかし、昭和20年、敗戦の年12月、小彌太会長には病を得て、亨年67歳をもって逝去、三菱養和会は新たな時代へと向かうのである。

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